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慶大、記憶と忘却の脳内メカニズムの鍵を解明
世界初、記憶と忘却の脳内メカニズムの鍵を解明
記憶・学習障害の治療法開発への新たな期待
慶應義塾大学医学部生理学教室の松田信爾専任講師、柚崎通介(*)教授らは、記憶や学習といった脳機能の基盤となる機構を世界で初めて解明しました。
人間の脳では膨大な数の神経細胞がシナプスという結び目によって結合し、電気信号を次から次へ伝達します。シナプスにおける信号伝達が長期間起きやすく、あるいは起きにくくなることが記憶・学習や忘却過程の実体であり、それぞれ長期増強・長期抑圧と呼ばれます。シナプスにおける信号の伝達は神経細胞の表面に存在しているAMPA受容体が担っており、長期増強や長期抑圧はAMPA受容体の数の増減によって起きると考えられています。しかし、その分子メカニズムについては未解明の点が多く残っています。
研究チームは、特に記憶に重要な脳部位である海馬の神経細胞を用いて、長期抑圧時にAMPA受容体がシナプスから取り除かれる最初のステップを明らかにしました。長期抑圧は、記憶・学習あるいは忘却に必須の現象と考えられています。したがって今回の発見は、脳機能の理解を深めるのみではなく、認知症などに見られる記憶・学習障害の病態の解明や治療法の開発に繋がることが期待されます。
本研究成果は、2013年11月12日に米国の科学雑誌「Nature Communications」のオンライン版に掲載されます。
*教授名の正式表記は、添付の関連資料を参照
◇ポイント◇
・記憶・学習の鍵を握る現象―神経細胞におけるAMPA受容体の輸送メカニズムを解明
・記憶・学習障害などの病態の理解や治療法の開発に繋がる重要な発見
1.研究の背景
私たちの脳は神経細胞が互いに情報を伝達しあうことで機能しています。神経細胞は軸策と樹状突起の2つの領域からなっています。神経細胞の軸策は次の神経細胞の樹状突起とシナプス(図1および(注1))と呼ばれる構造によって結合します。神経細胞が興奮すると軸索の終末部からグルタミン酸が放出され、このグルタミン酸を次の神経細胞の樹状突起に存在するグルタミン酸受容体という膜タンパク質が受け取ることによって信号を伝えます。特にAMPA型グルタミン酸受容体(AMPA受容体)(注2)が私たちの中枢神経系における速い神経伝達を担っています。グルタミン酸とAMPA受容体による情報伝達の起きやすさは状況に応じて変化することが知られています。この現象をシナプス可塑性と呼び、記憶・学習の基礎過程であると考えられています。近年の研究結果では、樹状突起においてAMPA受容体の数が変化することこそが、シナプス可塑性の分子実体であることが明らかになっています。例えば、シナプス可塑性の1つである長期抑圧(LTD;Long−Term Depression)は、樹状突起におけるAMPA受容体の数が減少することによって、シナプスでの情報伝達の効率が長期的に低下する現象です(図2)。しかしどのようなメカニズムによってAMPA受容体の数が制御されるのかは良くわかっていません。このメカニズムの解明は脳機能の理解を深めるのみではなく、さまざまな脳神経疾患の解明や治療法の開発に繋がることが期待されています。
2.研究成果
細胞膜に存在する「膜タンパク質」は細胞内で合成された後に細胞膜(細胞表面)へと運ばれます。膜タンパク質は細胞外の情報を受け取り、細胞内に伝達する機能を果たします。例えばAMPA受容体はグルタミン酸と結合することによって神経細胞を興奮させます。細胞表面に存在する膜タンパク質の量は、細胞内から細胞膜への輸送と、細胞膜から細胞内へ取り込む速度のバランスによって精密に制御されています。この後者の過程は一般にAP−2あるいはAP−3Aアダプタータンパク質(注3)によって制御されます。しかしAMPA受容体の細胞内への輸送がどのようにアダプタータンパク質によって制御されるのかはこれまで謎でした。
研究チームは、AMPA受容体と強固に結合するタンパク質であるStargazin(スターゲージン)(注4)が脱リン酸化(注5)されるとAP−2およびAP−3Aに強く結合することを発見しました(図3)。その結果、AMPA受容体−Stargazin複合体は細胞内へ効率よく取り込まれ、長期に渡って細胞表面のAMPA受容体の数が減少します。
また脱リン酸化されない変異Stargazinを導入した神経細胞ではAMPA受容体の細胞内への取り込みと分解に異常が生じ、長期抑圧が起きずシナプス可塑性が障害されました。さらにAP−2やAP−3Aタンパク質を減少させると、AMPA受容体の神経細胞内への取り込みと分解に異常が生じることがわかりました。今回の研究により、これまで謎であった記憶・学習に直結するAMPA受容体の細胞内輸送機構が初めて明らかになりました。
3.今後の展開
シナプスにおいてAMPA受容体が正常に機能しないと、記憶・学習障害や神経細胞死が引き起こされることがわかっています。またアルツハイマー病の原因物質の一つであるアミロイドβによりAMPA受容体の神経細胞内への取り込みが促進するという報告があります。したがって、AMPA受容体の神経細胞内への取り込みがStargazinの脱リン酸化とアダプタータンパク質との相互作用によって制御されるという今回の発見は、神経細胞におけるシナプス可塑性の分子機構について、初めて解答を与えることに成功したのみでなく、AMPA受容体が関与する認知症・虚血や神経変性疾患時の神経細胞死などの病態の理解や治療法の開発に繋がることが期待されます。
4.特記すべき事項
本研究成果はJST 戦略的創造研究推進事業個人型研究(さきがけ)「脳神経回路の形成・動作と制御」研究領域(研究総括:村上富士夫 大阪大学大学院 生命機能研究科特任教授)における研究課題「光による細胞内輸送とシナプス可塑性の制御」(研究代表者:松田信爾)および、JST 戦略的創造研究推進事業チーム型研究(CREST)「脳神経回路の形成・動作原理の解明と制御技術の創出」研究領域(研究総括:小澤瀞司 高崎健康福祉大学 健康福祉学部教授)における研究課題「成熟脳におけるシナプス形成機構の解明と制御」(研究代表者:柚崎通介)によって得られました。
5.論文について
【英文タイトル】
"Stargazin regulates AMPA receptor trafficking through adaptor protein complexes during long−term depression"
【タイトル和訳】
長期抑圧誘導の際、Stargazinはアダプタータンパク質との相互作用を通してAMPA受容体の細胞内輸送をコントロールしている
【著者名】
松田信爾、掛川渉、Timotheus Budisantoso(ティモセウス ブディサントソ)、野村寿博、幸田和久、柚崎通介
【掲載紙】
2013年11月12日に、米国の科学雑誌「Nature Communications」のオンライン版に掲載。
※以下の資料は、添付の関連資料「参考資料」を参照
・図1 神経細胞はシナプスによって結合し、神経回路を形成
・図2 長期抑圧
・図3 Stargazinの脱リン酸化とアダプタータンパク質との結合は長期抑圧のマスター鍵(キー)
・用語解説